この本をおすすめされたとき、ぶっちゃけ13歳なんかとっくにこえてるが…と思ったけれど、これは大人にこそ読んでほしい本だなと思った。
この本のはじまりは子供がモネの池の絵画に『カエルがいるよ』と言うところからはじまる。ネタバレをしてしまうと、モネの池にはカエルは描かれていない。だが『池にカエルの気配がする』というのは、それはひとつのアートの見方で良いのだ。
という感じで、我々が大人になるまでに積み重ねてきた凝り固まった『アートの見方』という無意味な偏見のコレクションをいい感じにぶち壊してくれるのがこの本。読んでる間、爽快感がすごかったというか、あ、わたし、なんかすっごい不自由な世界にいたかも!と思った。
この本を勧めてもらった背景が私がモネもピカソも見に行ったことがないことにはじまるのだが、なんというか、『モネとかピカソというのは、モネとかピカソという人物を学んでから見に行かないと理解ができないもの』と思っていたのだ。
実際、モネとかピカソとかいう人物を学んでから見ることで得られる洞察はあるのだが、学ばなくても『絵を見て感じること』はできるし、それでよいのだ。
高尚な楽しみ方がだけが正解でなくて、『この絵はなんとなくXXな感じがするなあ』を思っていいし、それでいい。ピカソのゲルニカはなんか泣いてるでもいいし、ムンクの叫びは夕日に叫んでいるでもいいのだ。
あとは美術の本で学ぶ『泉』についてもこの本では言及されている。あのトイレに泉ってタイトルがついてるやつ。
泉をはじめとして、同じアーティストが作った『そのへんのものにちょっと加工してアートっていったやつ』って、昔はアートかどうかかなり論点がわかれたらしい。今はみんな展示されてたらまじまじと便器を見ているが、実は初代は失われていて、現存する『泉』は商人がそのへんで手に入れた中古便器にサインをしてもらっただけの二代目である。作者本人、選んですらない。
それでも、後世にはアートとして伝わっている。後世でも便器じゃんと思われてるが、美術館にあるのでアートといってよいだろう。つまり、アートの枠組みなんて、そんなあいまいなものなのだ。便器がアートだっていってもいいし、そうじゃないと思ってもいい。好きにしたらいいんだ。
この本、AI絵について考えるヒントにもなる。
写実から抽象への転換点の話があるが、そこでは『カメラの出現によって写実絵の価値が下がったときに、写実だけじゃなくていいんじゃね?と思った絵師たちが、抽象絵をかきはじめた』みたいな話がある。カメラみたいな精緻に現実を写し取れるものですら、人間が絵を描くことを止められなかったのだよね。
泉の人は洗剤の箱をアートとして展示してる。その理由を『その方が簡単だったから』といっている。彼は洗剤の箱を発注して、展示会場に送り付けただけで、何も描いていない。これってAI絵における呪文を入力しただけで何も描いていないに似ているんじゃないかって。
つまりAI絵も今までのアートの転換点と同じように、なんだかんだ、うまい形で受け容れられていくのかなと思う。アートかどうか誰かが制定できるもんでもないし、何よりモノを作るのに便利なんだよね。横スクロール画廊サイト作ってみたくてAI絵を使ったサイト作ったけど、画像サイズ書いてあるだけの画像より作品っぽくなって私は嬉しいし楽しい。
というわけで13歳の2倍以上の年齢だからこそいろんな枷を外してもらえる13歳からのアート思考、大人にもおすすめです。読みやすいのでぜひ。